母は戦中・戦争直後、食べ盛りの私と姉、それに父と祖父のため食料調達に非常に苦労し、自分の食べる分も私たちに与えていたようで体力を消耗。ある日学校から帰ると母は布団に入り寝ていた。そばで姉が泣いている。私の不審気な顔を見て、母は「死にたいと言ったので姉ちゃんが泣いてくれているの」と。結局、終戦の翌年、昭和22年6月、私が9歳のとき、「心不全」で突然に死去。35歳。遠足時に作ってくれた薄切りさつまいも焼き、油をひいたフライパンで炒って温かく柔らかにした「乾パン」や夕食前の「
おこげ」
おにぎりなどは、母の記憶と重なり忘れ難い味として思い出す。「
乾パン」は今でもたべる。食べるたびにその味とともに疎開、父、母などが連想ゲームようにでてくる。
父も母を亡くし、幼い2人の子供と祖父を抱え困ったので昭和22年春に再婚。継母の弟も同22年秋ごろに復員し同居。家族が増え一層食料不足の時期が続いた。父は逓信省(現郵政庁)勤めであったので、自宅近辺の
特定郵便局長さんにお願いして、その方の土地を2ヶ所を借受けて、なすび、きゅうり、トマト、がぼちゃ、いも類などを栽培した。百姓の出である父は上手に作っていた。私も姉も手伝い行っては、きゅうりやトマトなどを、よく生でかじった。そのころはお腹を満たすことが先で味は忘れている。